『語り継ごう 日高の空襲』 遺族が平和の思い新たに
2022年12月08日 21時53分
きょう12月8日は、1941年、日本がアメリカの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった日で、この日から終戦までのおよそ3年9ヶ月間、当初、勢いのあった日本は、次第に激しい空襲に見舞われるようになりました。
終戦の年の1945年6月、和歌山県の日高地方を襲ったアメリカ軍による爆弾投下、いわゆる日高大空襲の被災者に聞き取りをして35年前に発刊された冊子『語り継ごう 日高の空襲』の制作に関わった元教諭が、このほど(11/4)、空襲で亡くなり冊子にも掲載された男性の遺族を訪ね、平和への思いを新たにしました。
『語り継ごう 日高の空襲』は、紀央館高校の前身である御坊商工高校の社会研究部と地理歴史部が、クラブ活動で行った空襲体験者への聞き取り調査をもとに1987年に発刊したもので、日高地方の、戦争による犠牲を知る上で一級の資料となっています。
「和歌山の空襲」などの著作を残した故・中村隆一郎(なかむら・りゅういちろう)さんとともに、クラブ活動の顧問を務めた元教諭の小田憲(おだ・あきら)さん72歳は、自ら運営に関わった講演会に参加していた井戸育代(いど・いくよ)さん73歳が日高大空襲の犠牲者の遺族であることを聞き、このほど、御坊市湯川町の自宅を訪ねました。
井戸さんは、日高大空襲の犠牲となった祖父、東定義(あずま・さだよし)さんの写真を小田さんに見せ、「私はまだ生まれていませんでしたが、祖父は、当時13歳くらいだった母が結婚するのを楽しみにしていたと聞いています」と説明しました。
これに対し、小田さんは、「語り継ごう 日高の空襲」の一部を読み上げ、現在、日高川町の一部となっている旧・寒川村(そうがわむら)の助役を務めていた東さんが、御坊市へ公務で買い出しに出かけ、帰りのバスを待っていたところ、空襲に遭い、背中に大きな石がのしかかり、58歳で死亡したことを説明しました。
小田さんから話を聞いた井戸さんは、「私自身、戦後生まれで戦争を知らない世代ですが、祖父が、どのようにして亡くなったかを知り、身につまされました。自分の子どもや孫にも話して、戦争の悲惨さを伝えていきたいし、命の大切さを感じながら、少しでも皆さんの役に立つ生き方をしていきたい」と話しました。
また、この面会には、戦争の犠牲となった東さんのひ孫にあたる、由良町教育委員会の教育長、寒川正美(そうがわ・まさみ)さん67歳も同席しました。
寒川さんは、「寒川村誌と『語り継ごう 日高の空襲』の記録が、母から聞いていた記憶と一致したので驚いたし、調べてくれた旧御坊商工の生徒の活躍は素晴らしいと感じていた。記憶と記録のつながりが大事で、記憶が消えていく中、記録をもとに語り継ぐことが、戦争の恐ろしさや平和の大切さを後世に伝えることにつながるのだと、この場で話していて、再認識できた」と話しました。
また、小田さんは、冊子を発刊した当時を振り返り、「調べて文化祭で発表して終わるところを中村先生が冊子にまとめようと提案して完成した。中村先生の指示で、誰がどんな状況で亡くなったか調査することにこだわったのがよかった」と語りました。
面会を終えた小田さんは、「あの頃はまだ戦争体験者に話を聞くことができたが、どんどん体験者が亡くなっていく中で、この話をすることで、私にとっても、あらためて平和の大切さや戦争の残酷さを知る機会になった。一つ間違えば、ロシアとウクライナとの戦争のようなことが起きてしまうことを、地元で伝える機会が持てないか、とあらためて感じた」と語りました。
小田さんは、御坊市にある和歌山工業高等専門学校で毎年夏に、戦争と平和について語る授業を受け持っていて、「来年は、今回の訪問についても触れたい」と話していました。