昭和南海地震から75年、4人の被災者に聞く

2021年12月21日 23時29分

災害・防災社会

全国で1400人以上、和歌山県内だけで269人の死者・行方不明者を出した昭和の南海地震が発生してからきょう(12/21)でちょうど75年となりました。被災した人たちの高齢化で、当時の話を聞く機会が減り、災害の記憶が風化しつつある中、当時、5歳から17歳だった田辺市在住の4人の男性に話をお聞きました。

南海地震の津波体験を語ってくれた4人(右から 真砂さん・広﨑さん・森下さん・山根さん)

昭和南海地震は、1946年、昭和21年12月21日の4時20分頃、串本町潮岬の南方沖を震源として発生し、およそ20分後には、当時の新庄村、現在の田辺市新庄町を、津波が襲いました。

和歌山放送では、旧新庄村で津波を体験した山根稔(やまね・みのる)さん92歳、真砂正次(まなご・しょうじ)さん85歳、広﨑寿彦(ひろさき・としひこ)さん82歳、森下松次郎(もりした・まつじろう)さん80歳の4人に当時の様子や、得た教訓をお聞きしました。

このうち、当時、10歳だった真砂(まなご)さんは、「地震があったのは朝方で寝ていたので、飛び起きた。家が壊れるのではないかと思うくらい、ゆっくりと横に、もちもちもともちと揺れた。音は聞こえない、いなびかりが見えて、『津波やでえ』という声を聞いた。昔から、この辺りでは、地震が揺ったら津波やで、と言い聞かされていたので、手近にあった毛布と布団だけを持って、隣りに住む友達と一緒に山の頂上まで登った」と当時を振り返りました。

そして、津波が押し寄せてきたときの音について、真砂さんは、「戦時中に1トン爆弾が風を切って落ちてくるときのような音の5倍はあるような大きな音で、山へ逃げながら、その音を聞いていた」と語りました。

このほかの3人も、飼育していた牛が津波に流され、1ヶ月後に4キロ離れた場所で見つかったエピソードや、幼かった親類が津波の犠牲になった話など、昭和南海地震の津波体験をそれぞれ語りました。

こうした証言は、毎週月曜日の午後6時半からお送りしている『ふるさと和歌山の防災』の中で、来月(1月)以降、詳しくお伝えします。

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